北海道新聞
■社説 −(8月27日)

猿払から*村民も歴史を共有した(8月27日)

 戦時中、朝鮮半島から日本のきつい労働に駆りだされた大勢の民間人がいた。陸軍の飛行場が建設された宗谷管内猿払村でも数百人の半島出身者が働かされ、遺骨が旧共同墓地に眠っていた。

 これを日本と韓国、中国の学生や研究者ら約二百人が一週間にわたり発掘し少なくとも九体の遺骨を見つけた。

 人口二千九百人の猿払村がこれだけの数の参加者を受け入れた。日韓、日中関係がぎくしゃくする中で、さまざまな人が寝食をともにし、歴史に向き合った感動的な出会いだった。

 村はスポーツセンター、老人憩いの家など三施設を十三日間、全面休館にして、宿泊研修会場に提供した。ほかの使用予定が入っていたが、村の説明を聞いた住民が快く了承し、自ら協力する人まで現れた。

 発掘現場まで約二十キロある。参加者を運ぶバスの不足分も村が用意した。

 当初、国内外から見知らぬ市民多数が遺骨発掘に来ることを怖がる人もいた。村が協力姿勢に変わったのは、開催一カ月半前に結成された現地実行委員会の盛り上がりが大きい。

 その代表の水口孝一さん(71)は発掘地域の自治会長だ。古老から「タコ部屋」の話は聞いていた。大工として寺の納骨堂増築の際、旧墓地の無縁仏を含む供養塔を建てたことがある。

 昨年秋、近所に調査に来た実行委員から史実を聞き、一連の記憶とつながった。「地元として黙っていられない」と、現地実行委を結成し、若者や主婦ら六十人が次々と集まった。

 現地スタッフは食事作りや現場のササ刈りなどの裏方をボランティアで引き受けた。歴史や戦争の真実を後世に伝えたいとの思いが村に広がった。

 夜の集会で地元の四人が証言した。「朝鮮人は(逃走防止に)はだし、タオル一本腰に巻いただけの裸で働かされていた」「病院で朝鮮人の入院者には食べ物が何もなかった」

 韓国からは三遺族が訪れた。十二歳のとき、警察官に連れて行かれる父のズボンにすがって泣いた遺族は、父の最期の地を初めて知り、見つけてくれた人々に深く感謝していた。

 朝鮮半島から道内に強制動員された犠牲者の遺骨発掘は、市民団体の空知民衆史講座が空知管内で一九八○年から始めた。日韓の学生らによる共同の発掘作業に発展して十年になる。

 政府レベルの取り組みは遅れている。一昨年の日韓首脳会談を受け、両国政府の実地調査が今月、福岡県で始まったばかりだ。

 強制動員については企業や政府が労務関係などの一次資料を持ちながら公開していない例も多い。遺族が生きている今のうちに、資料に基づくきちんとした調査をして遺族に説明し、遺骨を返したい。こうした作業が両国民の歴史認識の共有化にもつながる。



アサヒ・コム マイタウン北海道

「人骨10体分」確認 朝鮮人遺骨発掘終了

2006年08月26日

 ■遺族「涙止まらない」
  ――猿払で朝鮮人遺骨発掘終了

 宗谷支庁猿払村で、戦時中に朝鮮半島から徴用された労働者の遺骨の発掘作業が25日終わり、数カ所から人骨やベルトなどが確認された。人骨は10体分とみられ、埋葬された朝鮮人犠牲者の遺骨らしい。発掘には、この地で死亡したとされる遺族も立ち会った。張孝翼さん(73)=韓国・釜山在住=は「遠い故郷を思いながら死んだ父のことを思うと、涙が止まらない」と話す。

 (稚内支局・小泉信一)

 現場は1942〜44年、米軍の本土攻撃に備えて建設された「旧陸軍浅茅野飛行場」。

 張さんによると、43年春ごろ、農作業をしていた父を、日本の警官と役場の職員が来てトラックに乗せた。ズボンにすがって「行かないで」と叫んだことを覚えている。

 その年の10月ごろ、父の死亡通知が届いた。直後に弟が生まれたが、父を失ったことで、一家の生活は困窮を極めた。トウモロコシの粉でおかゆを作って空腹をしのいだこともあったという。

 昨年8月明らかになった猿払村が保管する「埋火葬認許証」には、43年9月3日に肺結核により43歳で亡くなったと記されている。「父は丈夫だったのに、連行されてすぐに病死したという記録には疑問を持っている」と張さんは言う。

 調査には、日韓両国の市民ら250人が参加した。約1400平方メートルを発掘したところ、人骨は中心部付近から集中的に見つかった。一部欠けているもののほぼ1体分の人骨が深さ約25センチの地中から見つかったほか、ベルトの金属バックルや「朝日」と書かれた地下足袋なども発見された。

 現場で火葬され、そのまま放置されたとみられるあばら骨や肩甲骨なども数カ所で見つかった。「男性」と性別が確認できた人骨は4体分。「この冷たい土の下で多くの人が眠っていたことが明らかになった。胸が詰まるような思いです」と張さんは話す。

 発掘を呼びかけた市民団体「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」(札幌市)などによると、遺骨の国籍を示す物証は見つからなかったが、(1)日本人は別な場所に埋葬・納骨されている(2)地元住民の証言と現場の状況がほぼ一致している――などから見つかった人骨は朝鮮半島出身の徴用者の可能性が高いとしている。

 遺骨は25日、浜頓別町の寺に仮安置されたほか、遺族とのDNA照合などのため、発掘に立ち会った専門家チームが一部を韓国に持ち帰る。


北海道新聞
■社会 −バックナンバー(08月21日)

猿払の徴用犠牲者調査 複数の人骨片出土 学生ら250人初日の作業 【写真】  2006/08/21 08:07

 【猿払】戦時中の軍用飛行場建設に徴用などで過酷な労働を強いられ、死亡した朝鮮半島出身者の遺骨を探す日中韓共同ワークショップは二十日、宗谷管内猿払村浅茅野の旧共同墓地で一日目の発掘を行い、複数の人骨片が出土した。

 浅茅野飛行場の建設に従事し、死亡した朝鮮半島出身者は判明しているだけで八十九人。旧共同墓地では昨秋、男性の遺体一体が市民団体の予備調査で見つかった。今回の調査は、旧共同墓地千百二十五平方メートルを四十五区画に分けて実施。この日は、日中韓の大学生ら約二百五十人がスコップを手に二十区画で作業を行った。

 午後に入り、三区画から骨片が相次ぎ出土。いずれも深さ二十五センチ程度に埋もれ、炭や戦前のものとみられるビール瓶が一緒に出土した区画もあった。

 発掘指導に当たった韓国・漢陽大教授の安信元さんは「埋葬と火葬による遺体が混在している。今のところ、二、三体の遺骨が見つかるのではないか」との見方を示した。発掘は二十四日まで続けられる。

<写真:遺骨発掘作業を行う日中韓の市民や大学生ら>



アサヒ・コム マイタウン北海道

「歴史」の扉開く/猿払・遺骨発掘

2006年08月21日

■日韓市民ら参加 「事実に目背けず」

 冷たい土の中に骨は確かに眠っていた――。宗谷支庁猿払村浅茅野の旧共同墓地で20日に始まった、戦時中に強制連行や徴用などで来日して労働を強いられ、命を落とした朝鮮人犠牲者の遺骨発掘調査。クマザサが密生し、昼間でも薄暗い森林の中で、日本と韓国の市民らが黙々と土を掘り返した。戦後61年。埋もれかけていた「歴史」の扉が少しばかり開き始めた。

 発掘は20日午後から始まった。地元古老らの証言をもとに旧共同墓地があった場所をあらかじめ特定。45区画(約3〜4メートル四方)に分け、初日は20区画を調査した。

 骨を破損しないよう丁寧に土を掘る作業。この日は3区画で、地表からわずか約30センチの深さで骨片が見つかった。

 「明日以降、回りの土を丹念に掘り起こしてどのように埋葬されていたのか全体の状況を調べたい」と韓国の発掘専門家チーム。人工的に穴を掘った跡や、ビールの空き瓶、茶わんなど墓前に供えたとみられる品々も何カ所で見つかった。

 今回の発掘は地元猿払村から約60人の住民が参加している。

 戦時中に強制連行があったことや多くの朝鮮人が犠牲になったことは親から聞いて知っていた人もいる。住民の間は「土にかえる遺骨だ。そっとしておいたら」という声もあったという。

 「この地に住む私たちは歴史の事実から目を背けてはいけない」と浅茅野地区の自治会長で発掘に参加した水口孝一さん(71)。

 地元からはボランティアで発掘に協力する人も出てきたという。

遺骨発掘作業で、地表から30センチほど掘ると、土の色が変わってきた=宗谷支庁猿払村浅茅野で


北海道新聞
■社会 −(08月20日)

猿払で徴用犠牲者の遺骨発掘始まる 日中韓の共同作業 【写真】  2006/08/20 07:18

 【猿払】戦時中、軍用飛行場を造るために働かされ、死亡した朝鮮半島出身者の遺骨を発掘する日中韓の共同ワークショップが十九日、宗谷管内猿払村で始まった。百八十人の参加者と六十人のスタッフが猿払で合流し、発掘予定地の旧共同墓地では韓国の考古学専門チームによる準備作業が行われた。

 同村農村環境改善センターで開かれた開会式では、主催者側が「六十数年前、どんな思いで一つ一つの命が消えていったか、想像力を持ちながら過去を掘り、未来を語ろう」と呼びかけ、二十四日まで六日間の作業の幕を開けた。

 旧陸軍の浅茅野飛行場は、今までに確認されただけで八十九人の朝鮮半島出身者が埋葬された。「東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」には、韓国、中国の学生ら約九十人も参加した。

<写真:花を供えた祭壇のそばで、遺骨発掘のための測量作業が行われた旧共同墓地=猿払村浅茅野>


北海道新聞
■社会 −(08月13日)

19日から徴用犠牲者の遺骨発掘 猿払・浜頓別、受け入れ準備に奔走 【写真】  2006/08/13 07:17

 【猿払、浜頓別】「せめて骨だけでも家族に会わせてあげたい」。戦時中、軍用飛行場を造るために働かされ、死亡した朝鮮半島出身者の遺骨を発掘する日中韓の共同ワークショップが十九日から、宗谷管内の猿払村と浜頓別町で始まる。歴史を知る住民も地元実行委員会を結成。自分たちの“戦後”と重ねながら、二百人余りの若者の受け入れ準備に忙しい。

 「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」などが主催。韓国から約八十人の学生と四遺族、中国から学生二人、国内は約百人の学生たちが集まる。

 猿払と浜頓別にまたがる旧陸軍の浅茅野(あさじの)飛行場は、対旧ソ戦に備え一九四二年(昭和十七年)から四四年まで工事が行われた。千四百メートルと千二百メートルの二本の滑走路が完成した。工事の主力は徴用された朝鮮人や囚人。動員された学生や住民も加わり、数千人が土運びや整地に従事した。過酷な労働で倒れた人は、共同墓地に土葬された。地元には「滑走路に人柱として六、七人が埋められた」「けが人は工事現場に生き埋めされた」との目撃談が伝わる。

 当時、軍の資材運搬で働いた猿払村浅茅野の農業鈴木正夫さん(82)は「麻袋みたいなものを着て、やせた朝鮮の人が働かされ、死者は荷車で運ばれていった」と話す。

 両町村役場からは、朝鮮半島出身者の「埋火葬認可証」が八十九人分見つかっている。戦後に旧墓地の住民の遺骨が新しい墓地に移された後、地元の寺の住職が十数人分の遺骨を掘り出し、韓国に届けた。八年前にも発掘が試みられたが遺骨は見つからず、住民二人が土をソウルに持参した。

 同フォーラムは昨年、旧共同墓地を試掘した。男性一人の遺骨が見つかったため、今回の本格発掘に踏み切った。浅茅野自治会長の水口孝一さん(71)は「短期間でも地区の祖先と一緒に眠っていた人たち。何とか故郷に帰してあげたい」という。水口さんの父もフィリピン海域で戦死し、遺骨が帰らなかっただけに実感がこもる。

 水口さんを代表に、猿払や浜頓別の有志が地元実行委を結成し、宿舎や作業の手配に奔走する。同フォーラムの殿平善彦代表は「地元の協力のおかげで調査が実現できた。長期的な活動を進めたい」と話す。

 実行委の連絡先は(電)090・1384・2862。

<写真:旧共同墓地の発掘予定地で打ち合わせする実行委メンバー。手前の穴は昨年10月の試掘跡=猿払村旧共同墓地>


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猿払の朝鮮人遺骨 発掘調査に日韓200人

2006年07月30日

■来月 地元「風化させぬ」

 宗谷支庁猿払村の旧陸軍飛行場建設に強制連行され、亡くなった朝鮮人の遺骨発掘調査が、8月20日から村内の旧共同墓地で行われる。地元の民間の人たちが実行委員会を作り、日韓両国から200人近くが参加して、遺族も立ち会う予定だ。戦後61年。犠牲になった人たちの遺骨を遺族に返そうという動きが、北海道でも最北に近い「小さな村」から広まりつつある。(稚内支局・小泉信一)

 「無関心ではいられない。私たちもお手伝いをしたい」
 旧共同墓地がある浅茅野地区(45世帯)の自治会長で、発掘に参加する水口孝一さん(71)はそう語る。地元に住んで半世紀。強制連行の問題が新聞やテレビで大きく報じられるようになり、関心を持つようになった。

 地域の人たちの話によると、旧共同墓地は戦前から住民が使っており、日本人も埋葬された。オホーツク海から少し離れた内陸部にある。大雨が降ると冠水するため、1950年代に日本人の遺骨だけが掘り返され、新しい「共同墓地」に移された。朝鮮人の遺骨はそのまま残されたという。私有地というが、現在では樹木が密生しており、昼間でも暗く、場所は分かりにくい。

 猿払村商工会の岡本昌孝さん(48)は6月下旬、「北海道フォーラム」のメンバーと初めて訪ねた。「『飛行場前』という国鉄の駅もあったので、陸軍飛行場のことは知っていたが、朝鮮の人たちのお墓は全く知らなかった。犠牲の事実を風化させてはいけない」

 地域の人たちに働きかけ、発掘調査の実行委員会を発足したのは今月初め。3人しか集まらなかったが、この2週間ほどの間に50人近くまで増えた。夏の観光シーズンだけに宿泊所の確保が心配されたが、村側も村の施設を貸してくれることに同意した。強制連行の当時を知る関係者の証言も少しずつ集まるようになった。

 北海道フォーラムによると、昨秋の試掘で遺骨が見つかった場所は墓地中心部の井戸跡近く。なだらかな膨らみを持つ地表の下に空間があり、頭を西向きにし、うつぶせの状態の遺骨が見つかった。棺おけや瓶(かめ)の痕跡はなかったという。

 周囲には似たような地形の場所が何カ所か確認されており、かなりの数の遺骨が見つかる可能性もある。「今回は遺族4人のほか、遺骨発掘の専門家チームも韓国から来日する。1体でも多くの遺骨を見つけ、故郷に帰らせてあげたい」とフォーラムは話している。

   ◇

 発掘は20日午後〜23日夕。24日には村内で報告会と追悼会がある。

■キーワード■猿払村での強制労働 1942〜44年、猿払村と、隣の浜頓別町では陸軍による飛行場建設が急ピッチで進み、朝鮮半島から多くの労働者が強制連行された。文献の多くは関係者からの証言に基づき、600〜800人と推測しているが、確たる資料はない。過酷な労働と虐待、伝染病などにより命を落とした人の数は、村や町が所蔵する「埋火葬認許証」だけでも89人。飛行場から少し離れた猿払村浅茅野地区の旧共同墓地に埋葬されたか、火葬されて、近くの寺院に預けられたとみられている。

◇遺骨収集、これまでの主な出来事◇

《2002年11月》 朝鮮半島から強制連行され、道内で死亡した朝鮮人労働者とみられる多数の遺骨と101人分の名簿が、本願寺札幌別院に納められていることが明らかに

《03年2月》 市民団体「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」(殿平善彦さんら共同代表)が発足。遺骨を遺族に返すことを決議

《04年2月》 「北海道フォーラム」に韓国人遺族2人が参加、心情を語る

《05年1月》 強制連行問題を調査してきた道立赤平高校の教諭から、猿払村浅茅野(あさぢの)地区の旧共同墓地に関する情報が寄せられる

《05年10月》 旧共同墓地で試掘調査。大腿(だいたい)骨などに激しい労働の痕跡があり、強制連行の朝鮮人とみられる遺骨1体が見つかる

《06年2月》 猿払村で8月に本格的な発掘調査を行うことを決定。フォーラムのメンバーは同村長と浜頓別町長に面会、協力を要請